伊豆の古道探訪

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神津島と海の道


神津島(コウヅシマ)から伊豆半島との位置関係を示す現代の地図です。3万5千年前から1万2千年前といっても2万年以上の歴史に亘りますので、潮の流れの変化や舟の構造進歩や操船技術の向上などで航路が変わって行くだろうと思いますが、本土への距離が短いルートを点線で記しましたが、旧石器時代の海の道はどのようなものだったか知りたいところです。利島から式根島間の水深は-1m〜-100mで浅瀬であることから、当時100m以上現代の海面より低かったとされていますので陸続きで面積も大きかったと思います。同様、神津島と恩馳島の間も非常に浅く繋がっていた筈です。また、式根島と神津島の間は非常に狭い海峡だったか陸続きであったかも知れません。現在の海深は-100m以上深い部分もありますが潮に土砂が流された可能性もあるからです。改めて伊豆諸島を地図で見ますと現在の島であってもずいぶん大きいと感じます。温かい海流の上でかなり大きい島で漁撈条件に恵まれ十分人が住める環境だったのではないでしょうか。

神津島から旧石器人が採取した黒曜石(コクヨウセキ)がどのようにして運ばれたのか、神津島付近で黒曜石が発掘され確認されていますのは利島と伊豆の河津の二か所です。利島は古代よりミツケノ島(見付けの島)とかアズケノ島(預けの島)とか呼ばれており、海上から見るに円錐状のシンボリックな形状で海の民にとって分かり易い目印だったに違いありません。また、利島の遺跡から45kg黒曜石が発掘されており黒曜石搬送の中継基地的役割をしていたのではと推察されます。加えて、後世のこととなるが大量の和鏡も発見されておりアズケノ島と呼称されて来たことも頷けられます。

一方、静岡県賀茂郡河津町見高の段間遺跡(ダンマイセキ)からは500kg以上の神津島の黒曜石が発見されていることから河津が本土側の港であり集積地だったと推定されています。
神津島から河津まで直線距離約60kmですが、渡航の有無は別にして神津島から式根島まで約10km、式根島から新島まで約3.5km、新島から利島まで約10km、利島から河津まで約33kmとなり、たとえ一々立ち寄らなくとも島伝いを通過することにより安心が得られ万が一の備えとして安全確保となることが考えられます。

なお、小さな舟の海上見通しは約2km余り、太陽の方向や潮流や小島や陸の匂いなどを熟知した海の民の勘が頼りの航海でしたが、私が思うのは天城山など数多くの伊豆半島の火山、箱根山、愛鷹山、古富士などの連続する火山活動による自然の狼煙が10万年前から1万年前に亘って、海の民にとって方向の目印だったのでは考えています。
そして、伊豆半島沿いに海退によって生じた陸路に沿って舟を引っ張って歩き渡河する時舟を使うか、泳げる程度の陸との距離を保って舟を漕いで行くか彼らは宝物の黒曜石を全国に広めて行ったと考えています。いずれにせよ伊豆半島と神津島間(30km内外)は少なくとも危険な渡海を余儀なくされたと考えます。

伊豆東海岸では木宮神社・来宮神社・貴船神社(いずれもキ≒木が付く)が多く祀られ、海南(海難)法師(カンナンボウシ)の伝説も根強く残されており、この地域独特の「海上からやって来る来訪紳」への信仰が強く残る土地柄となっています。
御蔵島の大ジイ(幹周13.8m)や利島の大ジイ(幹周12m)など現存しており、伊豆半島東側の島々には原生広葉樹林が生い茂り巨樹の島だったことが想像されます。


海上保安庁水路部による神津島周辺の海底調査
黒い部分は海が深い部分で白い部分は海が浅い部分

上図を参考に示したのは、旧石器時代は寒冷期にあり現在の海面より当時の海面の高さは約100m〜120m低かったとされ旧石器時代の神津島周辺の地形がどうなっていたのか、幾つもの小さい島が海上に顔を出していたのではないか、それとも現在独立して分散している島々が一つに繋がっていた可能性はないのか、海の渡航に関して神津島から伊豆の河津まで現在より数段条件が緩和(渡航距離や利島伊豆半島間の島の出現)があったのでは、と色々空想してしまいます。
残念ながら、今から1万年以上前の伊豆半島東南の島々の形状や海の様子に対し科学的研究がされていませんが、原始宗教の源流でもあり、海彦の生活の場でもあり、当時山彦達(内陸)の羨望の的・黒曜石を生む宝島でもある当該エリアの調査解明が望まれるところです。

島の周辺が広範に浅くなっていることから、当時の島の面積はもっと大きかったことも推察され、そこに旧石器時代の人々が村落を築いていたか、ないしは伊豆河津に部落を構え神津島へ定期的に黒曜石を採取しに行ったか分りませんが、なんらかしらの旧石器人の足跡は海面下に在る筈であり、今後の調査が期待されます。
ただし、最も知りたい当時の舟ないしは筏の構造を知り得る木造の遺品に遭遇することは繊維質は腐り易いことから見つけ出すことは極めて困難だと思います。ただし、石斧など間接証拠が見つかればと期待しています。

次に参考になればと思い、別の海上保安庁水路部による神津島周辺の海底調査による図面を紹介します。
ただし、古代妄想に慕っている私にすれば、三宅島に鎮座していた三嶋神社の名称延暦として大島・宮古島・古代神津島の三つの島伝説「三嶋の神」の語源ないし神々の位置づけ、ないしは意味合いが微かながら把握し得る史実として語り得るものか否か、当時大きな島が三つあったか否か興味の惹くところではあります。

伊豆半島東南約60km離れた所に存在する神津島をはじめとする島々の周辺は意外に浅いことが分ります。旧石器時代の氷河期は現在の海面より100m以上低かったとされています。下欄に海底地形として海上保安庁海路部が記している原文をそのまま添付します。

伊豆半島の火山と旧石器人
 

伊豆半島周辺の火山位置と火山が終息したであろう年代を記した図面です。どうやら20万年前頃には伊豆半島内陸部での噴火が終わり、現在の骨格となる山脈が形成され、河川も形成されて行き植物が繁茂し動物も活動し始めました。特に伊豆半島で注目されますのは河津から下田にかけ火山活動が太古より確認されていないことです。

旧石器人が生活の場と選んだのは伊豆半島南東部だった可能性が高いのではと思えます。それも漁撈と塩が摂取しやすい沿岸部辺りを選んだに違いないと思います。仮にこれらの人々が舟を造れる能力を有し舟を操れる技能を持つ海の民であったとするならば、神津島へ渡って旧石器人にとって宝石以上の価値を有する黒曜石を取って、魚や獣などの解体(調理)に使い、狩りや漁撈や草木を切る道具として使い、決して腐らず錆びない鋭利な刃物が当時の山の民の耳目に触れない訳は無く、またたく間(約1000年単位)で伝播されて行き、山の民では到底考えられない海を渡って採って来る代物と聞いては忽ち黒曜石の虜になった筈と思います。

刺身は包丁と言われている位に、生肉と切れ味は切っても切れない関係とされます。カミソリに匹敵する切れ味、切れなくなったら小さくして使って行く。黒曜石は火山の作った天然ガラスと称されるが、まさに3万5千年前〜1万2千年前の伊豆半島南東岸の海の民は日本初のガラスルネッサンスのポテンシャルを握った。

旧石器時代の遺跡発掘は大きく遅れている。なぜかと言えば、遺跡の大半が海中に在り発掘調査が難しいからだと思います。反面、縄文海進の時台地にあった縄文時代の遺跡発掘は大分進み氷河期海退のあった旧石器時代の現場検証は遅々として進んでいません。旧石器時代の舟も一艘も見つかっていませんし、舟を造ったであろう石鉾も見つかっていません。

ただし、近年の黒曜石分析科学技術調査により日本の黒曜石が日本の広域範囲の遺跡から神津島さんの黒曜石が混在すると判定され、逆説的に当時伊豆半島南東部の旧石器人が渡海技能を有していたと考えざるを得ない状況になっただけで、海中考古学は全く進展していません。私が思うには日本列島がアジア大陸の海岸線に立地したころ、きっとアジア大陸の先進文化は日本列島に集積していたに違いなく、アジア大陸が日本列島が分離した後でも五弦の琵琶や仏教の如く大陸では消滅し日本で在存を確認できる如く、辺鄙の地こそ歴史を留める可能性は高く、きっと伊豆半島南東エリアの旧石器時代の遺跡発掘調査が望まれます。

なぜなら、日本の文化的中心地は後世の京都奈良や大阪江戸でも無く、伊豆半島南東エリアに在ったと考えるからです。私達の考える時代のイメージは間違っている公算が高く、未だ遅々と進まぬ歴史検証の在り方を変えなければならないと訴求する者であります。さらに申し伝えたいのは旧石器自体の海進ですが、いくら進んだとは言え神津島と伊豆半島とは陸続きになることは不能視され、渡航の事実は否定できず、なんらかしらの方法で黒曜石を運んだものと思われます。

さて、伊豆半島の火山と旧石器人の関係は渡海の目印となり得たのは、富士山と箱根の火山、三宅島と大島の火山の煙程度に限定され、伊豆半島内陸部での火山は既に終息しており、目印になったのは山並みの形状と思われます。河津の段間遺跡の地域は見高と称され、当時として高台にあり海の陸上からの見晴らしに恵まれ、天城火山流を避け得た地域でもあり、飲み水も豊富にありました。      " 神津島 河津桜に波の寄す "

2011年1月に河津の見高・宮林遺跡から3万数千万年前と見られる黒曜石が発掘された。同時に2万8千年前の土坑(落し穴)が見つかり、東伊豆の旧石器人が長期に亘り河津見高周辺で生活していたことが裏付けられました。先に上げました段間遺跡は縄文時代であり、縄文人が違う場所で大量の黒曜石を見付けて見高へ運んだのではという疑問が消え、東京・武蔵野台地の旧石器遺跡(約3万2千年前頃)から神津島の黒曜石が発掘されていることと年代も符合することから旧石器人が河津見高周囲を生活圏としていたことが明らかとなって参りました。

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