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伊豆の古道探訪

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鎧坂から幸原への古道

私は今三島の古い道について夢中になっている。先般、大宮町に残る東へ丸く湾曲する古道を現在の地図に分かり易く図示したが、その古道から北側の道が知りたくてしょうがない。
鎧坂と呼ばれている現在の県道は直線的で、どうしても古い道とは思えない。

大正8年と9年に野戦重砲兵第2連隊と3連隊が三島に移転され、東西の連隊を分ける道路幅約16m直線道600mが創られた。道路の左右に土手が設けられ後に土手上部にカラタチが植樹されている。
道路完成後、側道沿い両側に防火に有効とされる銀杏の木が植樹され年輪が重ねられ今日に及んでいる。

当時は現代のようにブルトーザーやバックホーも無い時代だからツルハシやシャベルやモッコの人馬による工事で、同時に敷地の整備もしなくてはならない。大工事で工期も長かったに違いない。
それまでの幸原村につながる古い道(現代の北中と日大の敷地内だったと推測するが跡形も無くなり追及不能)も通行止めになったに違いない。それとも地元住民や三嶋大社への配慮もあって現在の銀杏並木通りが完成するまで元の古い道は温存され通行可能だったかも知れない。

そこで通行止めされた場合を考える。三島から北方につながる迂回古道が在った筈と類推した。戦後に日本大学の敷地がそのまま国から払い下げられたと仮定するならば、東側の境界は何によって制約されたのかという観点から地図を再確認したところ、だいぶ前に古老から聞いた話を思い出した。
現在では文教町市営体育館のテニス練習場西側に南北に通る細い道を沢地の龍澤寺のお坊さんが通る時、度々立ち寄ったとされる旧家・長谷川家の前の道は小川のある古い道と聞いており気になっていた。
その道から北へ日大の敷地に沿って道は存在し、少し遠回りになるが幸原村につながっている。

通行止めされなかった場合を考える。もう一本の鎧坂に繋がる古い本道は現在の銀杏並木に並行し蛇行していたものと思われるが、やがて銀杏並木道から大社に向かう鎧坂も直線的に変えられると元の鎧坂ルートも分からなくなってしまう訳だが、鎧坂登り口付近に右にY字に上る細道が確認される。そもそも坂道に二つのルートの存在の不自然さを感じ、現在古道に関する資料を探し始めているが、その細道が鎧坂と言い切れるような資料に辿り着いていない。通行止めしなかった場合、二本の坂道の存在は納得のいくところとなる。
ただ、幸原の古い道の存在と鎧坂が北への道だったの二点だけが頼りで、その中間は練兵隊の広大な敷地が横たわり全て更地化され、鎧坂から幸原の古道に繋がっていただろうと「幻の佐野街道」と呼称した。

もう一つ現在の文教地区の古い道が分り難くしているのが国鉄三島駅の開通による道路寸断と新たな道路の建設であり、大宮町の古道と、そこから北上する旧鎧坂あるいは沢地に向かう古い道筋を把握することの困難さを感じ始めている。明治時代に三島の北部には直線道は存在しない。道路幅は普通乗用車1台が通れるかどうかの曲がりくねった道だった。むろん舗装も無い土と石ころの道。マイカー時代の到来で道路開発が急ピッチに進み古からの道は埋没されるか、かろうじて残った古道も新道の片隅に追いやられ人々から忘れ去られて行く。歴史や地理を学ぶと同時に青少年は地元の古道と村々との交流や交通の変遷を知ることの大切さを、受験勉強一辺倒の教育界に投げかけたい。




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