【注意】 沼津略画図を分かり易くするため下記の要領でアレンジした絵図です。 |
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1. 現代地図に則り、北側を上にするため沼津略画図を回転させました。
2. 字が見難いので、私の推定で新たにテキストを貼り付けました。
3. 神社仏閣は現代地図と比較して現在固有名詞を採用いたしました。
4. 武家屋敷は憶測で黄色線で囲みましたが、誤りが確認されましたら都度修正いたします。
5. 本町辺りや三枚橋辺りの一般民家は概ね割愛されている略図面だと思われます。
6. 三枚橋と貉川(むじながわ)が描かれていません。
7. 旧東海道は赤線を引き、根方街道は緑線を引きました。
8. 機密保持のためか沼津城内は全く描かれていません。
9. 川廓通りと狩野川間の広場は最も古い沼津港と見られます。南側の広場は舟の渡し場と見られます。
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狩野川左岸(東側)の香貫山裾野に民家や仏閣など描かれ始めた絵図です。また狩野川に沿って幾筋かの道が形成されていたことが分ります。
また、香貫山北側の現在の黒瀬町から中瀬町にかけて主要通路に何本もの支道が描かれていて古くから存続
すると伝えられる玉造(玉作)村の生活圏だったのではと推察されます。現在の黒瀬橋付近に描かれている建物
は玉造神社でしょうか? 現在の清水町に通ずると思える古道も描かれ古の村と村との交流が感じられます。
まだ狩野川には橋が一本も架かっていません。城主の命令があったことが主因ですが、財政的理由と架橋技
術が京都や江戸に比し乏しかったことも否めないところと思います。
狩野川の右岸左岸に大腸の中に出来た白いポリープのように描かれた凸部は船着場と思います。当時は現代
の市場町の位置(狩野川左岸)に各地から川舟で運ばれた多くの海産物や農産品を捌く市場が出来たと文献にありますので、左岸右岸を多くの小舟が行き交っていたことが考えられます。
この図面で興味をひきますのは、現在の沼津警察署(浪人川付近)から黄瀬川村に向かう旧東海道沿いに松の
木のようなものが描かれていることで、多くの古写真に見られる街道沿いの松の木が思い出されます。
沼津市の平野部の殆どは縄文時代海底にありました。その後駿河湾の交代に相俟って河川により送り出された土砂などの堆積により平野部が形成されたので非常に坂の無い緩やかな傾斜の土地柄となっています。
慶長7年(1602年)に小林村、上石田村、中石田村、下石田村、木瀬川村、日吉村、沼津宿が協力して黄瀬川の鮎壷上流300mに牧堰をつくり、水路を掘削しはじめ牧堰用水を各村々に引き畑作中心から米作中心の豊かな農村となりました。この牧堰着工を命じたのは、関ケ原の戦い後の三枚橋城主に任じられた大久保忠佐(おおくぼ ただすけ)・・・弟は天下のご意見番・大久保彦左衛門)と伝えられています。
つまり、黄瀬川から西側一帯の沼津宿まで流れ下る川は農業用水でありお百姓さんの命だったのです。川の
流れから類推するに沼津城の地形も北側が高く外堀内堀の取水口は北側にあったに違いないと考えました。
大久保忠佐は農民の経済力を高め恵みを与えるとともに、沼津宿への用水、沼津城への引水と三方両得を考え
牧堰の着工を命じたのかも知れません。ずっと「沼津城の堀の水」のことを考えていますが、Web検索では中々
見つけだすことはできません。
空堀なのか水堀なのか?古い絵図では水色に塗られ大方水掘でなかったかと思われますが、時代の変遷により
変わった可能性も捨てきれません。
沼津城の近くを流れ北側に位置する川(用水)は貉川(むじながわ)と子持川(こもちがわ)の二つが在ります。
沼津城跡に井戸も発見されていますが堀との関係は無いと考えます。現在気になり出しましたのは、古い沼津城絵図の一部に外堀を囲むように小川が描かれている点です。もしかしたら万が一の備えとして上記二つの川から水を引いていたのではと考え始めています。 |