三島・沼津の古道を探る

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三島・昔の鎧坂

↓左側上り坂が現在の鎧坂、右の支道が旧鎧坂 ↓現在の鎧坂より大分勾配が緩い
↓入口から約46m進むと右斜めに折れる道を進む ↓前方に道幅が更に狭くなっている道となる
↓道幅が約1.2m前後の道が続く、三島溶岩が顔を出す ↓左方向に桜の老木が見えて来る
↓佐野街道と沢地の龍澤寺(りゅうたくじ)へ向かう道標(みちしるべ)が桜の老木の下に立てられている。
↓人差し指が右に向けられ「龍澤禅寺」と彫られている。 ↓右に向けられた右人差し指・大正五年
↓沢地・龍澤寺に向かう分かれ道 ↓人差し指が左に向けられ「佐野街道」と彫られている。
↓左に向けられた左人差し指 ↓佐野街道の分かれ道。ビルの北側にある北中のグラウンドへ昔は繋がり、幸原・裾野方面へ向かう。
↓上掲標識の後方奥に見られる庚申塔(こうしんとう) ↓桜の木の下に立つ庚申塔・・・東から撮影
昔の鎧坂を三島市文教町の現在地図に落とし込みました。
赤の実線は辛うじて残る旧佐野街道鎧坂、赤の点線は消滅して視認できない古道です。

昔の鎧坂は現在の急こう配で直進道の鎧坂と違って、予想していた以上に緩い勾配であり右左に折れ曲がっている。昔の鎧坂は現在の文教町2丁目に位置し、地形的に見て北西方向に三島溶岩流で形成された丘陵があり、その丘陵の裾周りにある緩傾斜を道としたものと思われる。

三嶋宿最北の三叉路に道標が立てられ、龍澤寺(りゅうたくじ)に向かうと神川橋を渡り、壱町田を通り抜け、龍澤寺のある沢地へ至る。龍澤寺の山門の前道を北へ少し足を延ばすと大樹が茂る駒形(こまがた)神社が鎮座する。鎧坂は坂だと言えばそうなのだが、極めて緩い坂道で道幅も狭く、鎧武者が隊列を組んで汗をかき鎧を木に架けたと伝えられている派手なイメージとは、ほど遠いと感じられた。

佐野街道を北上すると三島北中学校と日本大学の敷地内を通っていたことから、その痕跡は全く残されていないが、耳石(みみいし)神社の前道を通過し、青橋を渡り裾野市佐野へ抜け、更に須山街道を北へ向かったと考えられている。

幸原町の古老の話しでは、もともと幸原は七軒の民家があっただけの寒村で、旧佐野街道は現在の銀杏並木(通称・日大通り)より東へ離れた北中の東側を登り北上して日大の裏(東側)に抜け、宮川用水の通る裏道を北上し幸原山橋(幸原堰)辺りを左に曲がり更に細道を右に折れ北上し現在のJA北上支所辺りを抜け耳石(みみいし)神社付近に至るルートだったと聴取された。私はこの話に傾きつつあるのだが、今一つ確証が無く現在追調中である。

つまり、赤い点線は先入観念により、どうしても銀杏並木(通称・日大通り)方面に寄ってしまう描き方となってしまい上図の如く西寄りのルートを想定してしまったが、現在の北中校舎の東側付近まで緩い上り坂勾配の鎧坂が続き、更に日大裏側の裏道に繋がっていたと見なければならない局面になる可能性も出て来た。

昔の鎧坂は、大正8年(1919年)野戦重砲兵2連隊(やせんじゅうほうへいにれんたい)が、大正9年(1920年)野戦重砲兵3連隊が三島に移転されたことから、同敷地造成により鎧坂を含む佐野街道の一部は埋設され痕跡は残されていないが、大正8年以前に作成された三島市北部(現在の文教町から幸原町に至るエリア)の古地図が残されているのなら昔の鎧坂と佐野街道を現在の地図に落とし込むことは可能と思われ現在追調中である


昔の鎧坂に移された「鬼鹿毛馬頭尊」碑(おにかげ・ばとうそん)と「愛馬忠霊」碑
↓「鬼鹿毛馬頭尊」碑と「愛馬忠霊」碑 ↓「愛馬忠霊」碑
↓「鬼鹿毛馬頭尊」碑 ↓「鬼鹿毛馬頭尊」碑の上部の「富士と日月」画像
↓左建物手前が「鬼鹿毛馬頭尊」碑
右の狭い路地が昔の鎧坂
「鬼鹿毛(おにかげ)」は、脚力の優れた名馬のことで全国各地に伝承され、「鬼鹿毛馬頭観音」は各地に祀られている。旧佐野街道鎧坂に祀られた同碑は、工事の関係で数回位置が移されているが、旧佐野街道と沢地道との分かれ道の道標(みちしるべ)と直近の位置となり、落ち着くべき所に落ち着いたと思われる。

明治16年の「鬼鹿毛」碑と昭和14年の「愛馬忠霊」碑は、鎧坂直近北側に野戦重砲兵第2連隊と同第3連隊が存在し軍馬多数を配していたため、いずれも死んだ軍馬を供養した碑だと思われます。

この碑が一般の馬頭観音と異なる点は、駿東郡小山町の新柴観音を分霊したもの伝えられていることです。それにしても馬力車がやっと通れる幅の狭い古道は、なんとなく気持ちが安らぎます。

高射砲や兵隊を運ぶには軍馬が必要不可欠だった時代、沢山の軍馬が連隊の中で飼われ調教されていた訳で、その飼料需要により箱根西麓一帯の農家が経済的に潤いました。

三島旧市街地にも家を借りて大勢の兵隊が居住するようになり商店や娯楽場も繁盛し、また軍需物資を生産する工場も三島周辺に進出し、一種の軍需景気が市民の台所を底支えとなりました。

また、医療関係でも後年「国立東静病院」の先駆けとなる軍隊の病院が現在の市民体育館の場所に創建され、戦後の医療の柱として活躍しています。
第3連隊の正門・・・現在の北小学校に一部残存します。

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