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楽寿園の小浜池や浅間神社の池が枯れても、なぜ三嶋大社(みしまたいしゃ)の神池は枯れないのか?
不思議に思っていましたが平成24年1月5日〜1月9日まで開催されました「新春三島尽くし展」におきまして、三嶋大社の神池の水源が三島宮川用水であることを初めて知りました。

宮川用水の取水口は大場川(旧称・神川かんがわ)の幸原堰(こうばらせぎ)とされ・三嶋大社の大鳥居と本殿を結ぶ一直線上の北に位置し、総延長約2kmの人口用水が神池のためだけに作られていたのです。昔は川の流れが目視されたのですが、現在では一部を除き殆ど暗渠化され目立たなくなってしまい人々の脳裏から忘れられようとしていますが、農業用水以外の目的で人口の用水工事が行われていたとは驚きました。

源頼朝が神池で放生会(捕えられた生き物を解き放つ)を行い、北条政子が神池の島に厳島神社を勧請するなど源頼朝の残影が色濃く神池に残されています。源頼朝が旧下田街道を大場まで直線道にし三島から大場の間に鳥居を二か所設け、三嶋大社境内を整備する際に神池に関連する工事を行った可能性もあり、頼朝と宮川用水に関する古資料を探し回りましたが、実に当該資料は見つかりません。

幸原堰から神池までのルートは、せめて知りたいところと思い、古い地図を探し出し古い記憶を思い出しつつ全ルートを現代地図に落とし込みました。Web初の試みです。用水路は青い線で描きました。
三島市立体育館の前を通過し、JR線路の下を抜け、順天堂大保健看護学部の敷地のど真ん中を通過し神池に辿り着くとは、地元の歴史通でも知らない人が多いのではないでしょうか?
つまり、三嶋大社は富士山系の湧水と箱根山系の両方の水を取り込んでいたのです。
幸原堰から神池ルート・三島宮川用水(みしまみやがわようすい) 総延長約2km 川幅約1m内外
なお、幸原堰(こうばらせぎ)については現在追跡調査中です。


一遍上人が弘安5年(1282)三嶋大社に参詣したところを描いた一遍聖絵(注)(国宝、神奈川・清浄光寺、京都・歓喜光寺所蔵)の第6巻 第1段です。

源頼朝が造営した三嶋大社の様子が窺える貴重な絵巻と評され、旧東海道から大鳥居をくぐり抜け神池を渡り、豪華な神殿が一遍上人を出迎えていることが描かれています。

下に載せました左上の徳川家康の造営図と比較しましても威風堂々とした社殿であったことが分ります。

時宗の紋所は、一遍の生家、河野氏(本拠を海中の大三島に置く河野水軍の首領)の家紋および大三島神社と三嶋大社の神紋に等しい「すみ切り三」である。

神池の歴史を語る江戸時代の絵図  造営図をクリックしますと拡大します
1604年・徳川家康三嶋大社造営図 1634年・徳川家光三嶋大社造営図
1654年・徳川家綱三嶋大社造営図 ⇒1654年境内絵図の解説

上掲右下の境内解説図にて神池への宮川用水の流れが分ります。同時に江戸時代の排水路も分ります。
神池の排水路は東側神池の南東端から旧東海道の北側沿道を西進し旧祓戸川(桜川)に接し、農業用水として使われていたことが分ります。上掲3枚の古絵図により少なくとも江戸時代を通して「三島宮川用水」は三嶋大社の神池の水源として使われていたことは裏付けられました。

昔は神池に耳のある「うなぎ」が沢山いたと伝承されていますが、桜川を遡上して来たうなぎが、きっと三嶋大社の大鳥居の前の神池排水路を伝って神池に到達したものと思われます。
境内西側・北側・北東側の薄灰色状の直線は今も残る石垣であり、祓戸神社(浦島さん)より1〜2mほど高い地勢上に三嶋大社(みしまたいしゃ)が建てられ、この台地を古より三島七原(みしまななはら)の一つである「高天原(たかまがはら)」と呼称されています。

徳川家光の時は五重塔が設けられていたが、徳川家綱造営の時、神池中央に鳥居が見られ、総門右奥には三重の塔があり、総門と神門の間にも鳥居が設けられています。本殿の東西には其々神門が設けられ、西側神門は三島八小路の一つとされる下小路に繋がる通路があります。東側神門からは三嶋暦師の館前に繋がる推定平安鎌倉古道(箱根神社に縁ある修験道の道)への通路が描かれています。

1604年当時の北門は、現在の北門位置より西側にあったことから、宮川用水は元あった北門位置から境内に流れ込む形態になった訳で、北東にあった社を迂回して現在流鏑馬が行われる本殿東側の南北神道の東側を南下して神池に流れ込みます。
江戸時代の神池に架かる神橋は南北二つあったことが分り、現在の一つの神橋よりも水の流動性は良かったものと推察され、亀やうなぎも数多くいたという伝承も頷けられます。

西側の神池の中島には北条政子の勧請した厳島神社が祀られており、東側神池と繋がっているものの東側のみ水の取入口と排水口を有すことから厳島神社の下座と見て造成されたと思われます。
なお、神池の大掃除は毎年5月10日ごろから5月17日ごろまで神池の水を抜いて行われます。中々お目にかかれない風景ですので、まだ見たことの無い人は一見すべきとお勧めします。

→→→神池の大掃除
幕末(承応期頃)の三嶋大社絵図   絵図をクリックすると拡大します
 
三島宮川用水のルート詳細が描かれている。東側の細小路には斜めに通る小道が見える。
西側の大きな小浜池(現楽寿園)周辺には建造物が存在しない。
小浜池(現楽寿園)の北東には愛染院(あいぜんいん)が存在し、同院南東隅には現在の白滝公園があり、同園からは桜川と源平川が流れ下っている。

注目されるのは北に向かう佐野街道であるが、真っ直ぐ北に延びておらず愛染院(あいぜんいん)跡から東に延びる道(大宮町付近)と三叉路上に分かれ東に弓状に膨らむ形で北上していることが描かれ、現在不明となっている北の見付は、この辺りにあったことが推察される。

さて、現在、東西か南北か両説有り位置が特定されない金谷小路(図の右下付近)であるが当該図を見る限り、クランク状の東西道付近に民家が全く描かれておらず、南北道路沿いにのみ民家が描かれていることから、金谷小路は南北に通る道ではないかと思われる。


三嶋大社(みしまたいしゃ)の神池の歴史

類聚国史に天長4年(827)神池の水が渇れ天下大旱し神官の訴えにより朝廷は三嶋神殿に於て澪祭(雨乞)を行わしめた6月11日から15日まで大雨が降る 時の帝は当社に圭田を寄せ神官に禄金財帛を賜ったとあるので、平安期の神池の水源は湧水だったことが推定される。

吾妻鏡に元暦2年(1185)8月源頼朝は神池において放生会を行いその際糠田郷・長崎郷を三嶋の料と定めたとあり、鎌倉初期の神池は源頼朝が放生会を開き、後年になり北条政子が厳島神社を勧請したと推定される。

宮川用水が何時誰により造られたか現在調査中であるが、上掲絵図により1604年以前に宮川用水は境内に流れていたことは否めぬところである。

鎌倉の鶴岡八幡宮にて文治3年(1187)8月15日、初めて源頼朝により柳原神池において放生会と流鏑馬神事が行なわれている。

左上の写真は東西の神池を繋ぐ水路を跨ぐ神橋であり
左下の写真は神池北東にある宮川用水取水口であり、鯉が取水口に群れている。


【追記】 郷土資料館だより(通巻第71号)に宮川用水の記事を見つけ出しました。

三嶋大社の神池の水は三島駅の北東約1キロメートルにある大場川の幸原堰から引かれています。
この神池は鎌倉時代初期に源頼朝が三島大社を整備した時に新たに造営されたものですから、宮川用水はこの頃に引かれたと推定されます。

・・・宮川用水は「頼朝用水」とも呼称し得る貴重な歴史遺産だったのです。 →Web初公開!! 2012.05.01

幸原堰(こうばらせぎ)航空写真 Google Earthより画像作成

幸原堰(こうばらせぎ)は三島市幸原町1-11-4付近・幸原山橋の北側に堰が設けられ、標高約54mの大場川に位置する。三島宮川用水は、ここから市道沿いに南下し、しばらくして日本大学の裏道(東側道路)を暗渠として下り、三島市立体育館前を横切りJR東海道新幹線ガードの下をくぐり抜け、順天堂大保健看護学部の敷地下を通り抜け、三嶋大社(みしまたいしゃ)の標高約32mの神池に辿り着く。(詳細は上掲地図を参照下さい)

総延長約2kmの人工用水路である。幸原堰から市民体育館・JR東海道線までは殆どが三島溶岩流の岩盤であることから、岩盤掘削工事を伴う難工事であったことが想像される。幸原堰と神池の落差は約22mであり、大場川の水位より常に高い段丘の上を南下し、用水の全長2000mとすると極僅かな誤差も許されない緩斜面の高度な用水工事だった筈で、既に鎌倉時代初期に高度な土木技術があったことの証左と言えよう。
第一級の鎌倉時代の歴史土木資産として今後注目されよう。三島教育委員会は「三島風穴」同様に見て見ない振りしていることは許されないと思われる。

なお、幸原堰自体が後年の大場川両岸の嵩上げ工事や水位変化に伴い幸原堰の取水口の位置移動や取水方法や構造変化もあったと考えられるところで、現在追跡調査中である。

→→→三嶋大社・神池の大掃除

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